石アーチ橋 (長さ) 

   都道府県別データ一覧にある橋長20m以上の石アーチ橋を「長さ」の順に並べたもの (径間不明の場合が多いため橋長を用いた)

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 霊台橋 れいたい 熊本/(下益城)美里町 人道/緑川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長89.9m,S28.4m(A),幅5.4m,高16.0m 弘化4(1847)
→明治33嵩上・水平化
→昭和55原形復帰
国重文 重要文化財霊台橋保存修理工事報告書 復元的修復/上流南側の鞘石垣は、昭和41の新霊台橋の架設の際に撤去 施主:惣庄屋・三隅丈八、石工:宇助、宇一、丈八(嘉八の長男~三男、丈八は後の橋本勘五郎)ら/近世最大径間の道路用石アーチ橋(現存する国内石アーチの径間長では3位だが、残る2橋は大正と昭和の築造で、比較することすらナンセンス)/美しい曲面で構成された2段の鞘石垣が特徴=下流北側の鞘石垣は、アーチ部分を巻き込んで積まれており、水勢からアーチの基礎部分を保護し崩壊を防ぐ「水制」の役割を担っていた/近代に入り交通のため一旦水平化したものを、再度原形に戻した珍しい例 1 写真
写真 立門橋 たてかど 熊本/菊池市 一般道/柏川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長75m,S21.7m(A),
幅3.6m
万延元(1860) 県重文 WEB(石橋) 保存状態良好 石工:宇一(嘉八の二男、三男は橋本勘五郎)/橋長75m、径間22mの大型アーチ/下流側の両岸を石垣積みで補強/橋に「立門」と刻まれ、漆喰が塗られている 1
写真 八勢眼鏡橋 やせ 熊本/(上益城)御船町 <日向往還>
/八勢川・東上野用水
石アーチ橋
(凝灰岩)
長62.0m,S18.2m(2A),幅4.06m 安政2(1855) 県重文 WEB(石橋) 保存状態良好/石畳と一体化した歴史的空間 石工:宇助、甚平(嘉八の長男と四男、三男は橋本勘五郎)/御船の材木商・林田能寛が私財を投じ架橋/上下流側に立派な鞘石垣/アーチ開口部の割りにアクセス部分が長い=左岸ぎりぎりに用水路用の開口部(S1.4m)/延長線上に石畳 1
写真 高麗橋 こうらい 鹿児島/鹿児島市 石橋記念公園
<一般道/甲突川>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長54.95m,S12.45m
(4A)
弘化4(1847)   WEB/石橋は生きている 洪水被害を受け、かなり大胆に復元(平成11移設復元) 石工:岩永三五郎/壁石:扇形の布積/甲突五石橋の1つ/上流側の水切りが垂直に近い勾配で立ち上がる 3
写真 玉江橋 たまえ 鹿児島/鹿児島市 石橋記念公園
<一般道/甲突川>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長50.74m,S11.55m
(4A)
嘉永2(1849)   WEB/石橋は生きている 洪水被害を受け、かなり大胆に復元(平成11移設復元) 石工:岩永三五郎/壁石:扇形の布積/甲突五石橋の1つ 3
写真 西田橋 にしだ 鹿児島/鹿児島市 石橋記念公園
<県道・鹿児島~東市来線/甲突川>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長49.50m,S11.70m
(4A)
弘化3(1846) 県有形 西田橋移設復元工事報告書 建設当初の姿(やや弧状に修正)に復元(平成11移設復元)/御門は想像再現 石工:岩永三五郎/壁石:扇形の布積/甲突五石橋の1つ/鹿児島城下の玄関口として藩の威光を誇示した橋(五石橋の中で、唯一擬宝珠高欄を持つ)=他の4橋の約3倍の費用をかけた/岩永三五郎の代表作 2 写真
写真 諫早眼鏡橋 いさはや 長崎/諫早市 諫早公園内の園池
<人道/本明川>
石アーチ橋 長49.25m,S17.4m(2A) 天保10(1839) 国重文 日本百名橋p232-233
/WEB
昭和32の諫早大水害後、橋はぶくともしなかったが、被害を大きくした原因となったため諫早公園に移設(昭和36) 「幕府の公儀巡検使を迎えるのに本明川に橋がかかっていないのは諌早の面目が立たない」という理由で、本格的な石橋の架設が検討→天保9に藩士2名が修理方に任命→藩主が経費の1/3、托鉢僧侶による寄付で1/3、残りは賦役で完成/ただし、巡見使の諌早訪問が天保9年6月15日と着工直後で、橋の片鱗も見なかったことから、上記の定説に疑問を呈する説もある/2径間だが中央の橋脚が九州の複数径間の石アーチ橋としては異例に頑強/スパン17.4mは世界標準からすれば小型だが、美しさという点では日本を代表する石アーチ橋 2 写真
写真 小筵橋 こむしろ 熊本/(下益城)美里町 一般道/小筵川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長47.00m,S11.0m(A),幅2.0m 文化5(1808)頃   WEB(石橋) 保存状態良好 石工:嘉八(橋本勘五郎の父) 1
写真 迫間橋 はざま 熊本/菊池市 一般道/迫間川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長36.6m,S20.8m(A),幅3.7m 文政12(1829)   市教委
/WEB(石橋)
保存状態良好 石工:伊助(施工例が少ないため、本人が設計したかどうかに疑問符)/径間20mと大型アーチの割に扁平、かつ、橋の上面とアーチとの間が薄い独特な型式(三五郎一族とは別) 1
写真 聖橋 ひじり 熊本/(上益城)山都町 廃道/笹原川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長35m,S19.9m(A),
幅5.0m
天保3(1832) 町有形 緑川流域の石橋群魅力再構築事業調査報告書(以後『緑川』と略記) 平成11修復/国道218号にぴったり接合するよう保存、上流面が見えない 石工:岩永三五郎 3
写真 岩本橋 いわもと 熊本/荒尾市 人道<三池往還→県道>
/関川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長32.7m,S12.6m(2A),幅3.4m 文久3(1863)頃 県重文 市教委 河道変更で橋の機能を喪失(京都の岡田橋と同じ)⇒保存方法としては、景観の伝承につながらず、あまり良くない 石工:不明(橋本勘五郎説は、恐らく間違い)/建造年について、これまで明治4、明治10などの説があったが、近年熊本大学による史料調査で、近世に遡ることが確認された/橋の北のたもとには、肥後と筑後の国境を警備する岩本番所があった 2
写真 虹澗橋 こうかん 大分/臼杵市・
豊後大野市
一般道/三重川 石アーチ橋 長31m,S25.2m(A) 文政7(1824) 国重文 日本百名橋p219-220
/WEB(石橋)
/市教委
大型車を通すため取り付け部を1mほど嵩上げして水平に→端部では高欄上にC壁 臼杵へ年貢米を運搬する際の最大の難所だった柳井瀬に、3人の豪商(三重・市場の油屋富治と後藤喜十郎、臼杵城下の茶屋・甲斐源助)が藩の許しを得て自費で架けたもの→私財投入で身代が傾いた/石工棟梁:臼杵の大野織平、支保工:大工・磯五郎/虹型の美しいアーチ橋 2
写真 虹澗橋 こうかん 大分/豊後大野市・
臼杵市
一般道/三重川 石アーチ橋 長31m,S25.2m(A) 文政7(1824) 国重文 日本百名橋p219-220
/WEB(石橋)
/市教委
大型車を通すため取り付け部を1mほど嵩上げして水平に→端部では高欄上にC壁 臼杵へ年貢米を運搬する際の最大の難所だった柳井瀬に、3人の豪商(三重・市場の油屋富治と後藤喜十郎、臼杵城下の茶屋・甲斐源助)が藩の許しを得て自費で架けたもの→私財投入で身代が傾いた/石工棟梁:臼杵の大野織平、支保工:大工・磯五郎/虹型の美しいアーチ橋 2
写真 金内橋 かねうち 熊本/(上益城)山都町 一般道
/御船川、中嶋新井手
石アーチ橋
(凝灰岩)
長31.0m,S16.4m・5.0m
(2A),幅5.5m
嘉永3(1850) 町有形 矢部町史/WEB(肥後石工)
/WEB(石橋)
道路拡幅のため、上部C化→主アーチはリブ補強 石工:宇一(嘉八の二男)、丈八(同・三男、後の橋本勘五郎)/小さい方のアーチは灌漑用水路を跨ぐため 4
写真 岩戸橋 いわと 大分/竹田市 (馬場・柏原)
人道<岩戸道>/馬渡川
石アーチ橋 長28.2m,S17.4m(A) 嘉永2(1849) 県有形 現地解説板/WEB(石橋) 保存状態良好/すぐ脇に道路橋 柏原組大庄屋・垣田角次郎らが岡藩に架橋を申請・約50両の資金も借り受けて完成/藩に対する嘆願書や設計書などが残る/壁石は野面積 1
写真 二俣渡(二俣第一橋) ふたまた 熊本/(下益城)美里町 人道/釈迦院川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長28.0m(A),幅3.3m 文政12(1829) 町有形 WEB 保存状態良好 石工:嘉八(橋本勘五郎の父)/写真・右側の橋 1
写真 馬門橋 まかど 熊本/(下益城)美里町 人道/津留川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長27.0m,S11.9m(A),幅3.0m 文政10(1827) 町有形 WEB 保存状態良好 石工:備前の勘五郎(棟梁)・茂吉/石工名を刻んだ石柱が立つ 1
写真 二俣福良渡(二俣第二橋) ふたまた・ふくら 熊本/(下益城)美里町 人道/津留川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長27.0m(A),幅2.5m 文政13(1830) 町有形 WEB 保存状態良好 石工:嘉八(橋本勘五郎の父)/写真・左側の橋 1
  虎口橋 こく 熊本/菊池市 一般道/迫間川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長25.3m,S15.9m(A),幅4.25m 嘉永3(1850)   市教委
/WEB(石橋)
保存状態良好 石工:伊助・幸兵衛・仙左衛門 2
写真 円通橋 えんつう 京都/京都市(東山区) 西本願寺・大谷本廟、
皓月池
石アーチ橋
(真円アーチ)
(花崗岩)
長24.0m(2A),幅6.0m 安政3(1856)   WEB(石橋)   全国的にも例のない2連の真円アーチ橋/当時は「奇行をつくした石橋」として珍重され、『花洛名勝図絵』にも紹介/高欄の地覆部が高く装飾的に加工され、その上に撥型の束柱(特異な形の擬宝珠)を載せる/石工等、施工の経緯は不明 1
写真 間戸川の車橋 まど 大分/臼杵市 (八里合)廃道/臼杵川 石アーチ橋 長23.0m(A) 嘉永3(1850) 市有形 市教委 橋側面が、両端部を除き雑木・雑草で覆われている   2
写真 山崎橋 やまさき 熊本/宇城市 人道/小熊野川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長23.0m,S14.0m(A),幅3.6m 天保2(1831)→慶応2(1866)高欄 市重文 WEB(石橋) 路面の舗装以外は保存状態良好 石工:種山組/弓型 2
写真 安見下鶴橋 やすみしもづる 熊本/宇城市 人道/浜戸川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長22.7m,S19.0m(A),幅3.7m 嘉永元(1848) 市重文 WEB(石橋) 路面の舗装以外は保存状態良好 石工:祐助/虹形の美しい橋 1
写真 長崎眼鏡橋 ながさき 長崎/長崎市 人道/中島川 石アーチ橋
(安山岩)
長22.35m,S8.07m(2A) 寛永11(1634)
→慶安元(1648)修復(前年の洪水による被害を受けて)
国重文 日本百名橋p229-231/馬場俊介/林 一馬/市教委 昭和57の長崎水害で右岸側のスパンドレル部流失→日本で初めてバイパス水路を造って原位置保存を行った 興福寺の第2代住持・黙子如定禅師(寛永9に中国から渡来)により寛永11に創建されたとされる(文書記録が寛文3(1663)の火災で滅失しているので、一部に異説もある)/如定が技術指導までしたのか、勧進のみ行い技術者が別にいたかも不詳〔如定の出身地・江西省には、中国で現存する最古級の石アーチ橋「栖賢橋(1014)」をはじめ16世紀以前に起源を持つ石アーチ橋があるが、すべて壁石・迫石背面が布積されており、長崎眼鏡橋との構造上の類似が目立つことから、如定の発案と見てよいのではないか〕/正保4(1647)の洪水で崩壊し、翌慶安元(1648)に「重修」されたとの18世紀以降の史料が複数あるが、この「重修」が修復か新架についても説が分かれる(初代の橋は石橋ではなく木造の虹橋であったという説もある、しかし、「寛永年間長崎港図」の写しをそのまま信ずれば、寛永11の当初から眼鏡橋だったと考えるのが素直)/沖縄を除く日本国内で最初の石アーチ橋(17世紀の沖縄は琉球王国だったので、「国内最古」からは除外)/撥型の束柱をもつ高欄→その後の石橋に大きな影響 1 写真
写真 万年橋 まんねん 大分/大分市 (寒田)西寒多神社・参道/寒田川 石アーチ橋 長22.0m,S11.0m(A) 文久2(1862) 県有形 WEB(石橋)/市教委 保存状態良好/平成10修復 庄屋・佐藤孝兵衛らが発起、大野郡の石工・後藤郷兵衛らが建造/太鼓橋とも呼ばれる優雅な虹型のアーチ橋/壁石は精緻な石組み(迫石に接する部分は二重アーチを思わせる造り)/橋の中央部は一体型高欄を除けば迫石だけで構成されている→技術的に高度で、かつ美しい 1
写真 御手洗橋 みたらい 熊本/(上益城)甲佐町 一般道/安平川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長22.0m,S9.0m(A),
幅5.0m
嘉永5(1852)?   町教委/WEB(石橋) 上部C改修、下流側拡幅 高い側壁上の半円アーチ/アーチというよりカルバートに近い 3
写真 三由橋 みつよせ 熊本/宇城市 一般道/小熊野川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長20.95m,S12.7m(A),幅3.0m 文政13(1830) 市重文 WEB(石橋) 上部C化/高欄改修 石工:岩永三五郎/雄亀滝橋と並ぶ、三五郎の初期の作品/アーチ底面:大胆な粗い石組み/弓型 3
写真 鹿路橋 ろくろ 熊本/八代市 廃道/河俣川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長20.3,S13.6m(A),
幅2.7m
嘉永元(1848) 市有形 WEB(石橋)
/WEB
保存状態ほぼ良好 石工:嘉八(橋本勘五郎の父) 2
写真 入道水眼鏡橋 にゅうどうすい 熊本/(菊池)菊陽町 人道<菅原神社参道>/菊陽杉並木公園ハス池<上井手> 石アーチ橋
(凝灰岩)
長20.00m,S4.22m(A),幅1.48m 江戸期? 町有形 町教委
/WEB(石橋)
平成14移設・復元/高欄改修 太鼓橋風の半円アーチ 2
写真 久兵衛橋(関橋) きゅうべえ 宮崎/
(西臼杵)高千穂町
一般道/上野川
石アーチ橋 長20.0m,S10.9m(A) 文久3(1863)   WEB(石橋) 高欄ガードレール化 アーチの上幅より基礎が2.6m広い+見せかけの二重拱環→肥後の石工の技? 2